映画の観客には2種類ある。

映画を「読む」人と、「見る」人だ。皆みな、映画を見ている、と思っているが、実際は違う。音楽でメロディより、音そのものを楽しむ人がいるごとく、映画でも、映像そのもの、カット割り等を見て味わう人もいれば、ストーリーや題材だけにこだわり、ひたすら読み、考える人もいる。自主映画をかじってしまったりした元映画青年らしく、オレは映画をカットの連なりとして「見る」。
そういう意味では、「行間を読む」という言葉にならえば、オレはワンカットワンカットの間を「見る」というよりは、「読んで」いるのかもしれない。この見方では、映画の主要成立要素、映像である情景をいかに切り取り、それをいかに編集するコトで、いかなる作品世界が立ち上がるかということを考えざるを得なくなる。


オレが「リュミエール」のエピゴーネンどもやどっかの映画学校だの大学だので教鞭をとって悦に入るインテリ系批評家なり研究家*1なりを嫌うのは、映画の構成要素にはあえて目をつぶり、いきなりてめえや仲間内でしか通用しないワケワカな「映画論」にあてはめてしか映画を論じようとしていないからだ。要するに、「教義」に外れてるか外れていないかだけで作品の良し悪しだのを断じようとしているわけだ。
お前らは一体ナニ様だ、中世の異端審問官か!? まったくもって、オウムや創価学会といった宗教団体か、旧来サヨク、学会という狭い世界だけで騒ぐエセ学者どもと変わらぬ。「井の中の蛙」だ。
人が人を裁くには、その専門職につかねば許されぬ。映画だの音楽は本来「裁く」対象ではないが、先にあげた連中は、時として平然と、おのれが信ずる教義に合わないからという理由だけで、「裁き」を下そうとしている。
こう決めつけること自体は一種の「断罪」であり、「裁き」を下しているとも言えようが、オレ自身に関して云えば、作品を語るにおいては、まずは創り手の意図を見極めようとしている。それを踏まえたうえで語ろうとしているつもりだ。要するに、常に相手の立場を必ず想定しているということで、いきなり、高みにたって裁きを下そうなどとまではしておらぬと思う。
話がでかくなるいっぽうだが、あえて続ければ、とにかく、「人はしょせん神にはなれぬ」ということだ。そのことだけは常に念頭においている。要するに、オレは自分よりも先に、神を持ち出したり、そのお先棒を担ぐ輩が嫌いなのだ。
いまさら云うまでもなく、映画はしょせん興行の産物であり、単なる娯楽商品である。それをなぜ、「神」なりそれに類した存在なり教義なりで語る必要があるのか。オレには正直、理解できない。
人はそれぞれ、おのれの本分に従って生きればよいではないか。他人の了見は、一見一聴の価値こそあれ、しょせん、それに従っては生きられないのだ。
「読む」と「見る」は違う。真に「見て」もおらぬのに、裁くなかれ。それでも、裁きたくば、汝、その罪人の内に入れ。入らずして、真に罪あるなしはわからぬはず。
知者を気取りたいがために、おのが空論のみに依りて人をあざむくなかれ。
云うまでもなく、これらすべて、我が身への警句なり。人生つらくしのぶれど、あえて生きよう明日まで。
……ところで、どうでもいいが、オレは坊主の孫だ。血は争えぬ、というヤツかのう(苦笑)。


*1:具体的には梅本洋一北小路隆志ら。