ヘンリー・フォンダ『十二人の怒れる男』

ディスカッション・ドラマの金字塔、全編これ名場面、どこをとってもいい台詞の連発だが、終始冷静なヘンリー・フォンダが怒気をみなぎらせる印象的な台詞をとりあえずピックアップ。有名なのは、やっぱ「話し合いましょう」だろうけど。


以下、個人的な思い出話なぞ。
学生時代、本作を三谷幸喜が芝居化したモノを中原俊が監督した邦画12人の優しい日本人のラッシュをにっかつ撮影所に呼ばれて見せてもらうという機会があった。
ヘンリー・フォンダとリー・J・コッブのキャラを中途半端にパロッたような主役格のちんちくりんメガネ男の露骨に独善的な言動にイライラ、どうにもクサい筋立てにムカムカと、オレが今に至る三谷嫌いになった発端の一作となった。
才人・中原監督のそつない選出のおかげで、映画としての出来はいいと思うが、正直芝居としてはダメダメだろう。個人的には、オリジナルを汚した愚作と断じる。
いまやってる『新選組!』もヒドイもんだけどな。子母沢寛司馬遼太郎といった偉大なる先達が築いた新撰組伝説をひたすらに低次元になぞり、パロってるだけ。そのへんの「わかりやすさ」がギョーカイ周辺にも支持される理由らしいのは、なんとなくわかってるつもりだが、なにがあろうとオレは加担したくなんざ、ないね。
三谷なんざどうでもいいヤツの批判を書いてても仕方ないな。マジネタに戻そう。
先のラッシュ上映後、中原監督は不在だったが、代わりにメインスタッフの方が聞き手となって感想をたずねられた。気付かなかったが、日活映画学校の生徒たちも一緒に見ていたらしく、彼らも一緒だった。
当時のオレは洋画一辺倒で邦画嫌い、つうかアレルギーだった。欧米映画に比べたら、新作邦画なんて全部クソだと信じていた。そのせいもあり、ほかの連中が万事心得たといった具合にお追従めいた肯定的意見ばかり吐いていたのを尻目に、オレはひとりだけ、冷笑まじりに悪口を言いまくった。
「いや〜、筒井康隆の小説で『十二人の浮かれる男』ってパロディがありますけど、どうせならあれくらいブラックユーモアにして頂けたら、もっとよかったなと思いました」
うんぬん。
映画が気に入らないなら気に入らないで、もっとわかりやすく批判をすればよかったのに、オタクばりばり、嫌味ったらしい文句を並べ立てた。いま思い出すと若気のいたりでは済まされぬバカっぷりに恥じ入る次第だ。
当然、先方の形相は変わった。
「そういうイヤなことを言われると思ったから、大学出の映画サークルの人なんかは呼びたくなかったんだよね……」
みたいなコトを言われた。怒りよりも「わかってねぇなぁ…」といった具合の「苦々しさ」が伝わってきたのを覚えている。
実はオレの所属していたサークルは先輩が中原監督の助監督についていたり、学園祭のシンポジウムで御招待したりと密接なつながりがあった。それだけに、先方としては、あるいは実になる意見を聞かせてほしいという期待があったかもしれぬ。実際、中原監督の下についていたもうひとりの先輩から後日、件のスタッフの方が怒っていたという話を聞かされて、ちょっと反省した。
かのお方のお名前は富田功氏。先年、故人となられたが、中原作品だけでなく、当時もその後もずっと邦画界屈指の名編集マンでいらした方だ。映画通を気取っていたが、当時のオレは氏の名前も素性も知らなかった。「知らぬが仏」とはよくぞ言ったものだ。


その年の暮れ、オレは8ミリ映画の監督に挑戦した。だが、結果は惨憺たるものだった。キャメラマンをしてくれた先輩は主演女優のポンジョ女子の口説きに夢中、オレはオレで映画の撮り方・つくり方そのものが全然わからぬまま、終始混乱しきって上映会の日を迎えた。作品はほとんど未完成なまま上映され、毎年御招待していた高名なる評論家二氏に「作品になってないモノを見せててはダメよ!」と叱責を受け、オレは失意のどん底に……。
これを契機に、オレは映画に一から出直す気分で、真剣に取り組みはじめた気がする。好き嫌いを問わず、新旧の話題作・名作はできるかぎり見るようにし、図書館で映画関連の書籍を読みあさったりした。そのうちに、重症だった邦画アレルギーもあっさり克服、オモロイ映画に洋の東西なぞなし、という当たり前の事実にようやく気付いた。
映画への熱さめることなく、卒業後は映画本周辺の仕事についたりしたが、結局、失礼を働いた富田功さんに直接お詫びすることはかなわなかった。
知らぬことは諸事基本的に恥であり、時として罪である。そのことをいまだ、オレは身を持って思い知る日々が続いている。


オレが一部インテリシネフィルで不愉快なのは、「記憶違いも映画の楽しみのうち。勘違い、大いに結構!」なんて無道を平然と言いつのる輩。彼らの根拠なんざ実にくだらなくて、例によって彼らの導師(グル)たるハスミンがどっかで映画の記憶違いをネタにしたりしてたからといった具合*1
たしかに、いわゆる「重箱の隅つつき」は下らない。しかし、正確性を期するというのは仕事の基本つうか、生きるうえでも必要な作業であろう。
もちろん、物事万事が万事、正確さ、厳密さにこだわりすぎるのは決して「粋」なふるまいじゃないし、格好いいモンじゃない。でも、最低限の知ろうとする努力や誠意といったモノを放棄した怠惰さに比べれば、ずっと真摯な姿勢ではあろう。そういった愚直さそのものを軽視するスタンスそのものに、「知の優位性」だかを見い出しているとしたら、おめでたい限りだよな。かくも厳しき淘汰の時代、無用の長物に居場所なんてありゃしねぇんだよ。


*1:いや、オレだって「リュミエール」とハスミンの主要著作くらいは読破してるっつぅの。70年代の「映画芸術」まで読んでるっつぅねん!