小津の威を借る狐ども。

先日小津安二郎の命日に行なわれたシンポジウムの概要を伝える記事が、朝日新聞に出ていた。一読してみて、正直言って、会場にいなかったことを心から嬉しく思った
すべては蓮實重彦が、いまさらながらてめえの映画ジャーナリズム界での存在価値を高からしめるために仕組んだ猿芝居ではないか、とあえて罵倒したい。要するに、小津を無用なまでにまつりあげ、その威光をかさにきて、それに加担することで自らの価値を高からしめようとするいやらしい根性しか透けて見えない、実にけがわらしい「イベント」ではなかったか。この言には多少根拠もある。5年前、同様のシンポジウムがあったが、そのときと同じ空気が誌面からもぷんぷん臭ったのだ。招待を受けたので少なからず期待して出向いたのに、あれほど失望し、不快だった体験はない。ハスミはたいした「政治屋」だと思い知らされただけだった*1。しょせん、映画人や観客とは住む世界が違う、「学者」に過ぎぬ、とあのとき思い知らされたのだ。
少なからず敬意だけは払ってきたつもりの世界の映画作家の発言に、どれひとつとして感銘に値するものがなかったことにも深く失望した。唯一、生前小津の謦咳に接した、吉田喜重の発言のみに真実味が感じられたが、救いにはならず。
御年95歳のマノエル・デ・オリベイラが老体をおして、かような地の果てまで「見世物」となりに来る必要性がはたしてあったのかどうか。小津が仮に存命であったら、こんな愚劣なイベントは開かれることはなかったであろう。鼻で笑って済ませたのではないか。もっとも、それでは、ハスミらによるまつりあげもなかったかもしれず、これほど高い評価も人気も得られなかった可能性はあるかもしれぬが。
映画は素晴らしいモノだし、いかような言葉で語られようと、いかなる形で処されようと、その価値は減じることはない。だが、映画を虎となし、その威を借りてまで卑小なる自己を主張し、あまつさえおのが私欲のために利用するなぞ、まったくもって下の下*2。 
参加することまではむろん罪なぞにあらず。ただし、そこに少しでもおのれの虚栄心が満たされる瞬間あったとしたら、客もまた、おおいに恥じてしかるべし。けがらわしきことかぎりなし。映画というたかが大衆食を美食とあがめたてまつる心根いやしき者どもに、ただ死を。
まこと、インテリの蒙昧につきあうとは、ある種、罪深い倒錯行為である。ふん、せいぜい貴様らなぞは、30年ほど前のカンボジアに生まれずにすんだことくらいを、幸いとなすがよいわッ!
不快さは極みに達した。あえて暴言罵言を吐いておく。
……明日からは映画ネタなんざ「封印」してみるか。正直、飽きた。

*1:先日も書いたように、これまでの業績それ自体は評価するし、また今回のような「政治力」が悠然と発揮しうるというだけで、それなりに敬意は払わざるを得ないことはわかっているが、ココではあえて罵言のみ書く。

*2:もっとも、小津は「映画監督なんて、しょせん橋の下で菰をかぶって客を引く女郎だよ」と、当時若輩の吉田監督に漏らしたらしいから、監督と名乗る人種の性根のあさましさなぞ見切っていただろうが。