杉山登志(CMディレクター)

リッチでないのに、リッチな世界などわかりません。
ハッピーでないのに、ハッピーな世界などえがけません。
『夢』がないのに『夢』をうることなどは……とても。
嘘をついてもばれるものです。

……以下、唐突ながら、前置き。
オレはいかな個人のブログといえども、見に来て下さる方の気分を害するような文章や物言いは可能なかぎり慎みたい、と生意気に考えている。
有名人など一部特定対象を罵言暴言でこきおろしたりしているが、それは自分としては一種の<サービストーク>、あくまでもネタのつもり。だってさ、真面目くさったり、しかめっつらしたり、肩肘張りまくったり、あるいは、見るからによどんだ空気発散してるような書き方やネタふりしてもしゃあないやん? 
要するに、一読して、「いやげ」な、読み手を本気でネガティブな気分にさせる文章を書きたくだけないのだ。ホント、毎日まいにち悪口雑言炸裂なワケだが、こう見えても少しは「控えて」いるのだ、マジで。
オレが気をつけているのは、いわゆる<私事>、一身上の「悩み」だとか、そういったコトはなるべく書かないということ。姿も見えない見ず知らずの他人の悩みなど、いきなり読まされても相手の困惑を誘うだけであろう。
気分が滅入っているときなど、「同じ悩みを抱えている人がいる」ことを確認できて、共感を覚え、気持ちが癒されることもあるが、大体において、<個人的な暗い話>は日常の場では歓迎されない。
そういう意味で、ココは日記ではない。ただの雑記帳(オレは<日々記>と呼ぶ)、ネタ帳である。

……しかし、正直、バカなヨタ飛ばし続けるのにも、疲れることがある。
以下も基本的には「ネタ」のつもりではあるが、読後、爽快感があるとは思えない。
そんなわけで、以下、暗い気持ちになりたくない方は、飛ばしてください。
名言だけ、なんとなく記憶にとどめて頂ければ、ということで。コレだけで、充分すぎるほどキツいけどね。





今日の名言。
これは、遺書である。
1973年12月13日、当時<CM界の黒澤明>と呼ばれた超一流CMディレクター、杉山登志はこう書き残して、赤坂のマンションの風呂場で首を吊った。享年37歳。
資生堂化粧品のアイ・メイク・シリーズなど、作品は内外で高い評価を得、高級マンション暮らしで外車を乗り回すなど、ハッキリ云って「リッチ」そのもの、順風満帆な人生だった男の死の謎はいまだに不明という。
自殺の理由などは正直、彼個人しか知り得ないことなので、詮索してもはじまらない。


問題は遺書の文面だ。オレはこれほど、痛烈な皮肉と絶望に満ちた言葉を知らない。
この言葉、CM業界という、はた目にも軽佻浮薄な業界だけの話ではない。オレが昨年まで身を置いた超末端書き物業にもあてはまる。つうか、ライターなんて、サラリーマンの平均年収以下の素寒貧生活に甘んじる人間が数多いわけだし、そんなビンボー生活を送る人間が、例えば、セレブだのなんだの、一般人の常識を超えた<お大尽>が跳梁跋扈するショウビズ業界のコトを書いているというのは、誠にお笑い種でしかない。道ばたの乞食が天下国家を論じるの「愚」に通じる。
成功者でさえ、絶望する。
いわんや、落伍者、失敗者をや。


基本的に、人間、おのれの肌身で実感できぬコトしか真に理解はできぬものだ。オレ自身、最近、映画がつまらなくて仕方ないのは、オレ自身の現実認識が変化したからだろう。「生身」がかもしだすリアル、切れば血が吹き出んばかりな、フィルムならではの「感触」が体感できぬ作品があまりに多い。いかなつくりものといえど、そこにはなにがしかの「リアリティ」がなくてはならぬ。
「リアル」を撃つ「リアリティ」。それがいまのオレが求めているものかもしれない。映画よりも小説よりもサッカーを優先するようになったのは、こんな理由もある。ハッキリ云って、ウソごとを見聞きすることに心底うんざりしてしまったのだ。



話が飛んでいる。いっそ、飛ばす。
先日、学生時代の後輩の結婚式に出た際、CMディレクターの先輩に数年ぶりに再会した。某社飲料水のCMで名をあげた人だが、最近の仕事を聞いたら、某外国スポーツ選手のCMを撮ったという。正直、驚いた。
「イイですねぇ! 本人としゃべったんですか? 奥さんもやっぱくっついてきました?」
ミーハーにも意気込んで質問するオレに、先輩は苦笑いした。
「お前も俗っぽいねぇ」
……はァ?
オレの虫の居所が悪ければ、その場が結婚式の会場でなければ、本気で喧嘩を売ったかもしれない。幸い、一杯入って御機嫌だったので、冗談で切り返した。
「いやいや、先輩、世界中の人間が知ってて、一度は会いたい、見ておきたいって超有名人ですよ? そんな人と仕事できるなんて、よっぽど恵まれているんですから」
「そうですよ。オレも映画監督より、ヤツに会いたいですよ!」
先日、ヨーロッパの世界的巨匠にインタビューしたという後輩も相槌を打つ。
「どうでもいいんだよ、どうせ仕事の相手なんだから。そいつがどんな有名人だろうが、知ったこっちゃないよ……」
先輩は正直、うんざりしきった顔をしていた。


今ほど売れてない頃、この人と電話で話してたら、こんなネタを聞かされた。
「JRのコンビニあるじゃん? あそこに行くとリストラされた社員のおじさんがたまにいて、いかにも慣れない風情でレジ打ちしたりして、笑えるんだよね〜。それを見るのが楽しくて、社員の皆で覗きに行くんだよ」
いまだに忘れられない一言である。失敗者や落伍者を笑い者にしてナニが面白いというのか?
この人はもともと、わざと性悪を気取る、いわゆる偽悪人な面があるので、すべてを鵜呑みにはできないのだが、冗談でも云っていいコトと悪いコトがある。
オレの先輩に限らず、そういう「鬼畜」な面をどこかに持ち合わせる人がCMディレクターだけでなく、映画監督や作家、デザイナー、芸術家等々、とにかく<クリエイター>を名乗る人々にはけっこう多い。モノ創りをするうえで、「鬼畜」になることは必要、現実生活でもそれが許されると勘違いしている節があるのだ。
「男子の一生は一事のみをなすにあり」という言葉もある。
だが、一事はしょせん一事。万事が一事で許されることは、あり得ない。あり得てはならない。
唐突にはじめたヨタ書きのシメとして、上記の先輩に、使い古された先人の名言を捧げて、唐突に終わろう。

「強くなければ生きていけない。
やさしくなければ、生きていく資格はない」

byレイモンド・チャンドラー「プレイバック」