「破局に落ちているのは私です。ただ、私は自分なりの誠実で、せいいっぱいに生きているつもりですから、破局だからと云って、よけるわけにはゆかないのです」
「どんな人間だってそれぞれの環境を背負って生きて来たでしょう。人様や社会に対しては重々申訳ないけれど、私も私なりに生きることをやめるわけにはゆきません。やがて、破局ははっきりとやってくるでしょう。いや、もうやってきたところかもわかりません。しかし、それなりに落着するのを待つほかに、今は私に、何の手立もないのです」
「戦っているからこそ、破局もあるのじゃないですか。手を拱いてたら、破局なんぞないでしょう。どんなに悪影響があろうと、生きている姿のままの私から、子供はそれなりのものを汲みとって、大きくなる以外にはないわけです」
オレは奥さん欲しいというくらいで、女性問題を抱えてなどいないから、檀一雄センセイとは事情が全然違う、せいぜい日々の生活、ビンボーなのが辛くて「火宅」じゃないけど「火車」だ、なんてタチ悪い自虐ジョーク云うくらいだが、上記の台詞にはなんだか他人事じゃなく、気押されるモノを感じる。自堕落男の言い訳と云ってしまえばそれまでだが、自堕落はやらないまでも、世に人に罪悪を為す者は腐るほどいる。「火宅の人」を本当に笑えるのは、いるとすれば神くらいではないのか?