笠智衆@『彼岸花』(小津安二郎監督)

そういや小津について書いた記事があったなと思い出し、忘れないうちにアップしてみた。ダラダラ長いし、ヌルいまとめ記事の割りには、雑誌の性質上、門外漢の方にもムリムリ「へぇ〜」と云わせるよう、煽り気味に書いてますけど、まぁこんなモンかなと。たぶん、風俗の待合室みたいなトコで読み捨てられただけ、誰様の目にとまったわけでもないでしょうから、自分で「保護」してみました。ただ、コレでも、たぶん映画雑誌の3倍以上(爆)のギャラだったから、ま、ワリはいいほうだったのかも。*1

感動追憶!
“日本のおじいちゃん”笠智衆&“映画の神様”小津安二郎
懐かしいけど新しい、永遠不滅の感動神話、いま再び!

黒澤明宮崎駿北野武……世界に誇る日本映画界の天才たち。ところが、実は、彼らが束になっても永遠にかなわない、不滅の名コンビがいる。それは笠智衆小津安二郎“映画の神様”と日本が誇る“お宝俳優”のふたりが織りなした感動神話が、いま再び甦る!


小津安二郎監督生誕百年
 今年は小津安二郎監督の生誕百年。世界各国で記念上映が展開されており、大盛況を集めている。日本では現存する全作品の上映イベント小津安二郎の芸術>が、11月18日から来年1月25日まで、東京・京橋の国立近代美術館フィルムセンターにて開かれる。また、誕生日にして命日の12月12日には、欧米やアジアから高名な文化人や映画人が集い、小津の功績を讃える国際シンポジウム<OZU2003>も開催予定だ。全作品は年内中にDVD-BOX化もされ、各方面で大好評を得ている。
 古今東西、老若男女問わず、今なお強い支持と人気を誇る小津安二郎の作品世界。そして不世出の名優・笠智衆は、彼のほぼ全作品に出演した、文字どおり、小津映画の「顔」。晩年は男はつらいよシリーズの「御前様」役など、“日本のおじいちゃん”として広く親しまれたが、彼の役者人生を一から創り上げたのが小津監督であった。
 現在も映画はもちろん、CMやデザイン等、小津&笠智衆が創造した作品世界が各界に及ぼした影響は測り知れない。“映画の神様”と日本が誇る“お宝俳優”、二度と現れぬ名コンビが創りあげた、その感動神話を語ろう。


●クロサワも頭が上がらぬ、日本映画界No.1の大巨匠・小津
 小津安二郎1903年12月12日、東京・深川で生まれ、1963年12月12日、ちょうど還暦60歳を迎えたその日に世を去った。以来40年経った現在もなお、日本はもちろん、世界中の映画ファンから“映画の神様”として尊敬を集めている。
 世界で最も有名な日本映画人は“ミフネ&クロサワ”こと三船敏郎黒澤明。ところが、彼らも全く頭が上がらず、心から尊敬していた偉大な人物、それが小津安二郎なのである。
 実は黒澤が監督デビューした戦前当時、すでに小津は日本映画界の「顔」であった。小津は黒澤の監督デビューの際の面接官で、さらに彼の第1作姿三四郎(43)を真っ先に賞賛したのも小津だった。いわば、小津なくして黒澤は存在せず、現在の日本映画界はあり得なかったのである。
●<笠智衆小津安二郎>神話的コンビの出会い!
 いっぽう、笠智衆は小津よりひとつ年下、1904年5月13日、熊本県生まれ。「りゅう・ちしゅう」という変わった名前は本名。実家が本願寺派のお寺で、次男坊の彼も「智衆」という僧侶名をつけられたのだ。実際、一時寺の住職になったが、本人はそれが嫌で松竹の俳優養成所に入り、役者稼業を始めた。
 若い頃の笠は、実はかなり二枚目、背も高く容姿は悪くなかったが、口下手で不器用な性格だったため、十年以上、大部屋俳優として苦労を重ねた。
 そんな彼の「才能」を見い出したのが若き日の小津安二郎だった。小津は自分の監督第2作『若人の夢』(28)から、遺作の秋刀魚の味(63)まで、35年間、笠をほぼ全作品に起用し続けた。映画百年の歴史の中でこんな例はまれだ。いかにふたりの「絆」が固かったかがわかる。
●映画界最高の「粋人」とヘタウマ俳優が織り成す、唯一無比の作品世界
 洒落者ぞろいの映画監督の中でも、小津は最高級の「粋人」と評判の男だった。180cm以上の偉丈夫で、現場では白のワイシャツにピケ帽、ズボンは女帯風の組紐をベルトに使い、白足袋を履くという「粋」なスタイル。普段は完全オーダーメイドの三つ揃いのスーツでビシッと英国紳士風に決めていた。持ち物も小物に至るまで舶来の一級品、食べるモノも並外れたこだわりを貫いた。友人には文豪・志賀直哉はじめ当代一流の文化人が顔を揃えた。
 現場では、役者の台詞の一言から一動作まで万事指示。演出はもちろん、湯呑みひとつ小道具に至るまで、画面に映る全てを完全にコントロールする完璧主義者だった。
 笠はそんな彼の厳しい要求にも、不器用ながらひたすら生真面目に努力して応え続けた。小津は明治男らしく彼の演技を直接ほめたりはしなかったが、どんな作品にも笠だけは絶対に登場させて、彼の「誠意」に報いた。昔気質な男のダンディズムを感じさせる。
笠智衆、映画界最高の“老け役”名優一代記
 『父ありき』(42)で、笠は小津作品で初めて主演に抜擢された。彼は当時37歳、息子役の佐野周二関口宏の実父)とは8歳しか違わなかったので、「(演じていて)気色悪かった」らしいが、男手ひとつで息子を育てあげる優しき父親を熱演して絶賛された。
 『晩春』(49)では絶世の美女・原節子扮する愛娘を嫁にやる57歳の老教授役で再度老け役に挑戦。ラスト、娘が去った家でひとりリンゴの皮を剥くシーンなど、哀愁を誘う名演で感涙を誘う。
 極めつけは東京物語(53)。尾道から東京に子供たちを訪ねる老夫婦を東山千栄子と演じ、70歳の老父を当時49歳と思えぬ見事さで演じ切った。同作は世界映画史上最高傑作とも賞賛される名作中の名作、笠智衆はこの一作で、世界的名優の仲間入りを果たしたのだ。
 小津の遺作秋刀魚の味(63)は『晩春』のリメイク的な内容で、岩下志麻が愛娘役。ここでの笠は59歳、ようやく年相応な役柄を任せられたが、残念ながら小津とのコンビはこれで最後となった。
●小津映画の老父役から“日本のおじいちゃん”へ、華麗なる(?)転身
 上記作品の印象が強すぎるため、笠智衆というと「娘を嫁にやる老父役」というイメージが強いが、実は小津作品でも『お早よう』(59)のサラリーマンの父親役など、年相応の役もしっかりこなしている。
 実生活では25歳の時に結婚した夫人と一生連れ添い、二男二女の父親でもあった。無口無骨な九州男児だが、実は酒も博打もやらない温和な性格。もっとも、小津以上に背も高い立派な体格、しかも柔道をやっていたので、大部屋俳優時代もヤクザな仲間たちにナメられることはなかったそうだ。
 気負わず、気取らず、ひたすら「自然体」であるがままに生きるその姿は、いつしか「日本人の理想像」として、愛されるようになっていた。
 小津作品以外でも木下惠介清水宏稲垣浩渋谷実など多くの名匠・巨匠に起用され、『手をつなぐ子等』(48)『命美わし』(51)『二十四の瞳』(54)『好人好日』(61)など、数多く名演を残した。なかでも、69年から始まった男はつらいよでの柴又帝釈天の住職、「御前様」役は、お寺生まれの彼にふさわしい当たり役であった。
 晩年はTVにも出演した。山田太一脚本の『ながらへば』(82)などお茶の間で名演を見せ、いつしか“日本のおじいちゃん”として親しまれつようになった。
 1993年3月16日、85歳で大往生を遂げたが、死後もその人気は衰えるばかりかさらに増し、いまなお日本人が選ぶ好きな俳優ベストテン上位に必ず入る根強い人気を誇っている。
●“小津&笠智衆”の感動神話は永遠に!
 “映画の神様”小津安二郎と、彼が見い出した名優・笠智衆。ふたりが創り上げた唯一無比の作品世界は、懐かしく、古びることはないがゆえにいつまでも輝きを失わない。
 独特な口調や映像による映画世界はいまだに後進に影響を与え続けている。いちばん有名なのは周防正行監督。大ヒット作シコふんじゃった。』『Shall We ダンス?』は小津スタイルの絶妙な模倣なのだ。また、CMでよく見かける「棒読み口調」、その元ネタは大体小津だったりする。各界クリエーターに熱烈ファンが多いからだが、これほどいまだに支持され続ける映像世界は類を見ない。
“小津&笠智衆”が織りなした感動神話は、まさに永遠不滅なのだ。*2



*1:どうでもいいですが、題名もリードも全部オレです。G体は掲載時は先方が手抜きでやってくれなかったので、いまつけました。

*2:「某実話系月刊誌」(現在休刊)03年12月号より