YMO

インベーダーゲームが日本中を席巻したあの頃、オレは小学校低学年だった。人並みにゲームウォッチだのは欲しがったし、ピコピコ音にも反応するガキではあったが、YMOの名前は結局、散開まで知ることはなかった。音楽に詳しい兄貴やダチがいたわけでもなし、『トップテン』と『ベストテン』をオカンの許しを得て見るのがせいぜいだった田舎モンチビに、YMOは遠かった。
それでも、「ライディーン」と「以心伝信」だけはTVで耳にして、いい曲だ、という印象だけは持っていた。
ライディーン」は正月の『オールスターかくし芸大会』で、当時の売れっ子女性タレントが踊りくるうってのがあって、そのバックにかかっていたような記憶がある*1
「以心伝信」は国際児童年だったかのテーマソングとしてNHK大河ドラマの放送前、番組紹介時にバックで毎週流れていた。
そんなYMOが散開したのがオレが中1の12月。翌年、FM三重で2週にわたってYMO特集をやり、それを聴いて、一躍、オレはYMO中毒者になったのだった。文化祭の前、9月頃、蒸し暑い夜だったように思う。ラジオから流れてきた「ライディーン」のイントロ、ビシッとオレの脳神経を刺激しまくりだった。いてもたってもいられず、当時通ってた私立中学校がある津市駅ビルのレコード屋で、YMOのテープを探した。「サービス」しか置いてなかったので、それを買った。オレが自分の小遣いで買った、記念すべき初めての音楽ソフトだ。スーパーエキセントリックシアターのしょうもないギャグはその後何度聴いてもいまいちノレなかったが、ディスコポップ調の収録曲7曲は飽かず、聴いた。レコードで「BGM」を買ったのはそれからまもなく。高校にあがって、CDが出て、ようやく「増殖」「アフターサービス」あたり以外は全部揃えたハズだ。

当時、YMOはオレが信ずる<夢と幻想の街>・東京そのものを代弁する、まさに東京の音楽だったってコト。上京するときは絶対に新幹線でYMOを聴くというのが儀式になってたモンだ。今はさすがに、そこまでナイーブな感傷をこめてYMOを聴いたりなぞできないが、それでも、東京入りするときはYMOを聴くというクセはいまだ続いてたりする。似合うと思うんだよな、YMOのピコピコ電子音って、東京という風景にさ。

今は坂本龍一「B-2UNIT」を聴いている。コレ、テープで聴きこんだが、CDで買うのは実は初めて。テープをダビングしてくれたのは高校時代の親友。坂本談義を日夜飽きもせず続けた、甘酸っぱい記憶が甦る。ヤツは東大目指してたンだが、結局慶応大学にしか入れず、挫折感をひきずって暮らしたあげく、結局帰郷、今は県庁だかにいるハズだ。「私立大学なんぞ旧専門学校に過ぎん!」なんて罵言を吐いたりと困った男でもあったが、今はどうしているのやら。今は心ならずもオレも帰郷したワケだが、妙な縁は感じないでもない。
……このへんの音楽体験事始め+青春の悔恨記(笑)はダラダラ長くなるだけなんで、いずれまた。


*1:小柳ルミ子だか誰かが後ろを向いた途端、ドレスをモロ肌脱ぎして正面を向く、という(子供心には)ドキッとするシーンがあってそこだけなぜか覚えている。あのバックにかかっていたのが「ライディーン」だったと思うんだが、もしかしたら違うかも