司馬遼太郎

司馬遼が亡くなって、今日でちょうど9年になる。
オレは自他共に認める司馬遼太郎の愛読者なんだが、それを口にすると、学生時代の友人や読書家と称する方々にはふん、と鼻で笑われた経験しかなくて、どうにも歯がゆい、悔しい。
どうやら、「国民的作家」という呼称が一人歩きして、リーマンで管理職の親爺が愛読する読み捨て通俗小説だと思い込まれているような気配がある。
あのさ、訳知り顔のインテリ様に告げたいんだけど、「竜馬がゆく」とか一部ベストセラーだけ読んで、司馬遼をわかった気になって欲しくないワケよ。
つうか、オレ断言できるけど、インテリ気取りってもいろいろでさ、文学読みまくってても歴史は全然知らないってヤツもかなりいて、そういうのに限ってバカにしたがってるように思うんだわ。
あるいは、歴史マニアすぎて、いわゆる「司馬史観」なるモノを真剣に目くじら立ててしまうとか。
いずれにせよ、司馬遼を軽視したがる人種には、ただの白眼視だの思い込みや不等な蔑視が露骨すぎて、オレみたく、内容以前にとにかくあの独特の文体に魅せられたファンからすると、鼻白むことしばしばで困る。
山田風太郎藤沢周平と比較したりするのも違うと思うな。作家としての立ち位置もアプローチがもまるきり違うから。
まぁ、オレはたしかに貧読無学の徒ですからして、偉そうなコトは云えないんだけどさ、やっぱさ、人が好きだッ! って云ってるモノをけなしたりする物言いは控えたいモンだよね、オトナならさ。
オレが以前仕事をもらってたある女性編集者は、村上春樹も小馬鹿にしていたりした。いや、たしかにオレでもバカにできたりする側面はある作家だけどさ、読んでるモノだけで人を判断するようないやらしい人種にはなりたくない、とそのときつくづく思ったモンだ。



日常生活において、すべからく「格付け」なる行為を、真剣に信奉/実践することほど、卑しき振る舞いはない、とオレは信ずる。自戒も込めて、あえて書いておきたい。
人間、自分が信ずる人やモノがあれば、あとはそれをいかに自分らしく信じていくことができるか。それが一番肝心だと思うんだよな。ナニかを信じてる、愛好してるってコトが、おのれはもちろん、周囲も納得させるコトができたら、最高だ。
だいじょうぶ、リクツじゃないんです!!!