『ボウリング・フォー・コロンバイン』地上波初放映。

……うぉぉぉ、うっかりしてたァ! 最初の40分、録画できなかったァ〜(泣)。
山ちゃん(山寺宏一)、マイケル・ムーアをうまく十八番のデブ声(爆)つくってアテてるけど、さすがにキビしいな(笑)まぁ、ンなコトより、チャールトン・ヘストン納谷悟朗御大がアテてるコトがサイコーなワケで。
ということで見終わった。納谷さん、演説シーンでは雄々しさ全開ながら、問題のインタビューシーンではわざわざ平常モード以上にフガフガ節。演技しすぎですって(笑)
吹替で見ると、さらにアクの強さが際立った感じ。アンチ<マイケル・ムーア>が多いのもうなずける。著作で特に目立つ、「くどさ」が目につくきらいあり。
やはり、この漢の本領は故郷ミシガン州フリントについて語る時のマジさにあるように思う。「愛国心」だの「正義心」だのという得体の知れない思想はともかく、「愛郷心」というのは隠し切れないものだ。オレはヤツのそういう、自分自身に関わる「ベタ」なトコで、妙にマジになるあたりに、共感と可愛気を覚える。
ハナシが別次元に流れるが、漢とは、本来、俗なレベルで信じられる者のコトを云うのではないだろうか? オレが知るかぎり、理知的にすぎる人間はドキュメンタリストはもちろん、創作者には不向きだ。シンプルなハナシで、何事にも冷めきった人間が第三者を巻き込むモノを世に出せるハズがないのだ。ヒトを扇動するだけに長けた仁は、わざわざ出来不出来の基準があいまいなモノ創りなどにはハナから挑戦しない。政治家か、企業家か、あるいは犯罪者になるであろう。いずれもヒトをだますコトで生きる人種である。もちろん、オレはそんなヤツらを信じない。だまされたくないからね。
オレがムーアを信ずる、というのは、「しょせん、ベタな漢だ」という次元で、信じられるというコトだ。物事を「頭」でしか理解できないエセインテリには、あの漢のベタさも、きっと「作為」としか見えないコトだろう。
くだらないね。人間ってな、生まれ落ちた時から、本来的に、自分と周囲の誰かの「作為の産物」でしかないんだけどね。そんな人間ふぜいがつくる映画なんて、最初から恣意的な産物でしかないのはトーゼンのハナシだ。こういうわかりきったコトをわざわざ大層に小難しい物言いするヤツを、オレはエセインテリと呼ぶのだ。
「ドキュメンタリーは客観的産物」などと信じられる向きは、きっと自分自身を簡単に「神」の立場における方々なのだろう。わかるかね、「客観」なんて、人間にゃもともと、存在しないんだよ。自分が客観的な人間だと心底から信じてるヒトは、病院にでも行ってみてもらうこったな。自信過剰、尊大にもほどがあるってぇの。