- 作者: 隆慶一郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1989/09/28
- メディア: 文庫
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徳川家康影武者説って隆センセイにとってはデビュー作以来主要テーマのひとつだったんですねぇ。もちろん、それ以上に「道々の輩」、歴史の裏でうごめいていた知られざる「周縁」の民の生きざまを活写したいというコトもあったんだろうけど、例えば、山窩(サンカ)が伝説ほど特殊能力を持った集団だったとは到底考えられない…といった最新の研究成果を念頭において読むと、かなり鼻白む内容にも思えたり。
もちろん、フィクションなんだから、史実なんて無視して、勝手に隆慶一郎ワールドでキャストを活躍させてくれればいいし、事実、そうやって創り出された虚構のキャラクターはイキイキはつらつとしてて、読んでいても小気味いい。
ところが、将軍・徳川家康は影武者だった、という「史実」とは違う<隆流史観>全開になると、書き方も考証の仕方も途端にいかがわしくなって、退屈で仕方なくなる。このへん、小説なんだから、例えば山田風太郎センセイみたく、大ボラの吹き方を考えてほしかったところ。
主人公が吉原最高の太夫に筆下ろしてもらう場面とかエロエロで燃えるし、一気に読めて楽しくはあるんですけどね。
「かくれさと苦界行」だと、「子連れ狼」でも仇役な柳生烈堂が極悪のかぎり尽くしたあげく、からッと改心したりするんだが、そのあっけなさも面白かったり。史実的にはどういう人だったのか、もっと知りたいトコ。
そういや、山岡荘八も「徳川家康」で家康を史実よりも善人に見せたいばかりに、豊臣秀頼は淀君との間になした不倫の子という設定にしてたりして、ホント、読んでてアホくさかったなぁ。たしかに、秀頼はもしかすると秀吉の子じゃなかったかもしれないけど、わざわざ家康の子にしなくてもいいじゃねぇか、って。
作家たるもの、歴史上の人物を描く際は、史実なんざねじまげるのは一向に構わないが、くれぐれも「私物化」はしないでほしい。
オレが司馬遼太郎と山田風太郎が好きなのって、ふたりとも虚実問わず、登場人物を突き放して描いてるトコだったりするんだよな。いくら自分が生みだしたからって、作家が創作したキャラや設定に執着しすぎるのは考えものだ。親バカが傍目にはあさましく見えるのとそは同じ。ミステリならヴァン・ダインなんてその典型だし、クリスティもエルキュール・ポワロを偏愛しすぎてわややな作品量産したし。
映画でもキャラ偏愛に傾いた映画は駄作ばかりだ。晩年の黒澤明作品とか山田洋次の大半の映画とか、コッポラの『ゴッドファーザーPART3』とか、あと、低次元な例で恐縮だが、利重剛の映画とか(爆)
愛すればこそ、突き放すべし! 可愛いコにゃあ旅させろ!