『乱れ雲』撮影前の話。打ち合わせの席で、巨匠は脚本家・山田信夫に一言。
「山田さぁん! いっぱい書いて下さいねぇ♪」
成瀬の舌舐めずりせんばかりの表情に、山田がたじろいでいると、
「山田さん、監督はね、脚本を削るのが何よりの愉しみなんですよ!」
と、助監督がニヤニヤして告げた。
「ボクは削られるようなモノは書きません!!!」
と、若く血気盛んだった山田は奮然と言い返したが、成瀬は黙って笑っているばかりだった。
成瀬が演出段階で脚本をいかに「削った」かについては、「映画読本 成瀬巳喜男」(フィルムアート社刊)にも実例が出ているが、その無駄の省き方にこそ、成瀬一流の透徹した演出の真髄が見てとれる。
ちなみに、山田が渾身で書き上げた脚本は、幸いというべきか、ほとんど直される箇所はなかったという。その後まもなく成瀬は亡くなったが、山田は自分の脚本がはたして本当に巨匠の眼鏡にかなっていたかどうか、自問自答したそうだ。映画黄金時代終焉期、切れば血が出るがごとき真のシャシンに賭けた男たちの熱き戦いのヒトコマであった。