しきたり以前に「体裁」を整える美学ゆえ?

http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000088672.shtml
お盆にふさわしい話題というか、なんというか。
日本の墓って遺体はもちろん、お骨も埋まってるワケじゃなく、あくまでも「墓碑」でしかないのに、そこへ毎年参るってのもよく考えると、不思議な話だよなぁ。
ノンフィクション「墜落遺体」で、日航機墜落事件の折、遺族が被害者の遺体の一片でも発見されることに血道をあげたのは日本人に限られたという記事を読んだ。これ自体、自分自身でも非常に納得がいく「こだわり」だが、遺体にこだわるワリには墓だけは平気で<参る墓>と<葬る墓>を区別するというのが、よくわからない。昔は遺体は「野辺送り」後「三昧」と称して山に埋めたりしたらしいし、今だと納骨は菩提寺に(あるいは各家庭の仏前に)、というパターンも多いんだよな。
「魂」なるものがあるのかないのか、そんな形而上的問題と論議する以前の話。もし仮に魂が「宿る」モノであるならば、墓なぞつくらず、各家庭で遺骨を仏前なり位牌なりの横に置けばいいような気がする。死者の霊も、後生も常に家族の傍にあることを望むのではないか?
いわゆる「死穢」の思想等、一筋縄ではいかない歴史と伝統もあるとは思うが、結局、葬儀屋業界をもうけさせるためだけのシステムが見えるだけのような気もする。とりあえず、オレは葬儀に坊主を呼ぶことだけはゴメンだ! 死んだ後じゃ、どうせ本人じゃどうにもならんのだけどさ!
……ちなみに、ゴチャゴチャ文句云うワリに、オレ自身は墓参り自体は喜び勇んで行くほうだったり(爆)墓掃除とか誰よりも率先してやっちゃうモンなぁ、、、なんだかなぁ。とりあえず、両親の葬儀は世間体とは関係なく、こだわってしっかりやってしまいそうだ。。。