フェデリコ・フェリーニ『ボイス・オブ・ムーン』

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スタジオジブリの中坊向けファンタジーアニメの傑作ではない。
イタリアが生んだ映画史最高の巨匠のひとり、フェデリコ・フェリーニの遺作である。


シメは、「月のささやき」だった。
フェリーニの映画からは、いつも「風の音」が聴こえていた。詩的表現ではない。効果音として、いつもどこかで、鳴り響いていた。フェリーニ作品は役者は姿形のみ、声は後で別の役者なり人が入れるというアフレコ方式、効果音も後入れだったであろうから、風の音も意識的に入れていたのだろう。
風の音からは、フェリーニ作品の主題である「宴のあと」のわびしさ・せつなさが云い知れぬほど伝わってきた。『81/2』しかり、『アマルコルド』しかり、『サテリコン』しかり、『ローマ』しかり、『カサノバ』しかり、そして『インテルヴィスタ』しかり。
過剰なセット主義、マニエリスムの権化などとハスミ一派から冷笑されたフェリーニ作品だが、実のところ、もっとも映画らしい映画を撮っていた男と評するほうが的確だろう。映画とは、興行である。興行は見世物である。そして、見世物と云えばサーカス。フェリーニの原点は、まさにサーカスであった。フェリーニが考える「真実」の映画の姿は、サーカスであり、しょせん見世物でしかなかった。見世物とは、いっときの「宴」だ。宴はとこしえには続かぬもの、その「無常」感そのものが、フェリーニの映画にはずっと映し出され続けた。どこからともかく響いてくる、風の音と共に。
そんな風の音が、『ボイス・オブ・ムーン』ではやんでいた。「オッパイを見に行こう!」てなバカ男どもの騒ぎにさそわれて、とりとめなく延々と続く静かな狂騒劇は、いつしか、人間どもの狂気の源とされる「月」の捕獲でクライマックスを迎える。「月に吠える」は狼犬のなすこと、人間様なら「月を撃つ」。フェリーニはなんと、月をあっけなく地上に引きずりおろしてしまった。ほとんど宴会芸ノリの見世物主義、ここに極まれりである。
これは初日に駆けつけた。日比谷シャンテ・シネ1。映画の天使、淀川長治氏が特別にトークに来場した。

フェリーニの映画は、風です。海です。波です。太陽です。月です。スクリーンに映るものうつるもの、みんなみんな、“詩”なんです」

氏の酔ったような口調に、すっかりのぼせあがってしまった。興奮のあまり、その夜は一睡もすることができなかった。あの夜がなかったら、自分はその後あれほど映画にのめりこむこともなかったろう。フェリーニはこの直後来日もしたが、舞台挨拶を目撃することはかなわなかった。
「風の音」がやみ、「宴」は終わったように見えた。だが、あるいは、もしかすると新たなる別の「宴」が始まろうとしていたのだろうか? 「月のささやき」と共に。

耳をすませば、君にも聴こえてくるかもしれない……」