聞き書きオカン一代<その1>

上と直接つながるわけではないが、ウチの家族の話なぞ、少し。
ウチのオカンは昭和19年(1944年)南京生まれ。国鉄職員だったじいちゃんが現地の鉄道(満鉄の支線?)に家族を連れて赴任していた際に生まれた。南京には例の虐殺事件後に行ったらしいが、現地の人々とはうまく付き合い、トラブルはなかったらしい。
敗色濃厚となった昭和20年春、一家は日本に引き揚げた。混乱のなか、幼い4歳の次兄(オカンのひとつ上の兄)が迷子になったが、お手伝いのおじさんが人力車で探して連れてきてくれた。まかり間違えば次兄は残留孤児になっていたわけだ。涙ながらにお礼をいうばあちゃんに、おじさんは淡々と語った。
「あんた方家族は我々を差別もせずに、よく接してくれた。だから、ぼっちゃん、連れてきてあげた」
ばあちゃんは女ひとりで、4歳の叔父と赤ん坊だったウチのオカンを抱いて、命からがら日本に帰ってきた*1。引き揚げ時の混乱は満州ほどではないにせよ、もともとお嬢さん育ちのばあちゃんには人生最悪の経験だったらしく、亡くなるまでいくら聞かれても絶対に当時の話を語らなかった。
じいちゃんは中国で収容所に抑留され、終戦後しばらくして、別人のように憔悴した姿で帰国した。尋常小学校卒業後、すぐ神戸に出て国鉄職員になり、いっぱしのモボ気取りでなかなか粋人だったというじいちゃんだが、収容所の体験が元で「人変わり」してしまったという。戦後は国鉄を辞め、実家で百姓仕事。現金収入が少なかったため、長男はすぐに働きに出て、オカンはじめ下の兄妹はもちろん、姉である長女の学資まで稼いだ。
じいちゃんは孫たちには不愛想ながらも優しかったが、たいてい酒くらって寝てばかりいた。頭は非常にいい人で、オレの受験した私立中学の算数の問題を簡単に解いてみせたりした。オレが中学校2年生の初夏、じいちゃんは土間に水を飲みに降りた際、上がりがまちで倒れ、脳硬塞であっけなく亡くなった。ばあちゃんが様子を見に行ったら、すでに息を引き取っていたという。
ばあちゃんはオレが大学を卒業した頃、じいちゃんの墓参りに行く途中、じいちゃん同様脳硬塞で倒れて即日ボケてしまい、寝たきりになった。晩年は意識もハッキリしなかったが、一度うわごとで妙なことをつぶやいた。
「小さい子供を連れているんです。テントなんかで寝かせないでください。屋根の下でしか寝たことがないんです……」
引き揚げ時の苦労が脳裏に甦っていたのであろう……と、看病していたオカンはしみじみと語ってくれた。
オレの祖父祖母でさえ、戦中はこれくらいの苦労はしているというコトだ。侵略された中国側の怨念たるや、考えるだに空恐ろしいものがある。
山下将軍のコスプレして放言する水野ハルヲみたいでイヤだが、やっぱ、
「戦争はよくないッ!」


*1:一番上の長女と長男は一足はやくじいちゃんの実家に帰されたが、そこで親戚や近所のガキの陰湿ないじめにあったそうな