コレ、史上稀に見る鬼畜作。精神面での話だけどね。脚悪の娘が聾唖者の家庭教師と組んで、両親とその浮気相手を別荘に呼び集め、6人の間で胸糞悪くなる精神的拷問合戦が繰り広げられる、ってな大変教育上よろしいお話(爆)。
中盤、家庭教師が娘の松葉杖借りてひとりケンケン遊びするいまいち意図不明なシュールなシーンがあるのだが、ココのバックで流れるのがクラフトワーク「放射能」(爆)ナニをどのようにどこまで狙っているのかいまだにわからんシーンだけど、思いっきりやられまくってしまった。
先の『少しの愛だけでも』に続いてコレを見て衝撃を受けたオレは、その1年後、8ミリ映画で先輩女子に後輩の演劇青年を車椅子に押させて、一文戸山キャンパスにあるカフェテリアをぐるぐる回らせるというワケワカなシーンを撮った。上記の迷場面にオマージュを捧げたつもりだったんだけど、もちろんわかってくれる人はいなかった。当たり前だよな、本人もラッシュ見て、後で気付いたんだから(爆)相米慎二の影響もかなり入ってるけどね。ちなみに、バックには坂本龍一&ダンスリー「グラスホッパー」(「エンド・オブ・エイジア」収録)を流してみました。
ココの雑記では折に触れて、いわゆるシネフィル*1を罵倒しているが、実のところ、コレはかつてそういう人種に一瞬でも憧憬を抱いてしまった愚かなてめえへの今さらながらの自己批判のつもりでもある。
付け加えておけば、今でもハスミこと蓮實重彦については、尊敬すべき所は誰よりも尊敬しているつもりだ。単に、彼が編み出した句読点ナシor変則打ちのワケワカ文体の模倣としか思えぬ駄文を、いまだに書き散らして業界にへらへら居座る糞エピゴーネンどもに虫酸が走るってだけ。もともと、学術論文風の小難しい文章が苦手だし、個人的にはそういう文章に何の価値も見出せないし。ま、もぅ一切関係ないし、怒る理由も一切ないんだけど、たまたま目に入った時の不快感たるや凄まじいモノがありましてな(笑)
サークル時代、<ハスミ教>に染まった先輩どもに有象無象のプレッシャーをかけられたという「恨み」もかなりでかいね(笑)。18歳当時のオレにとって神様(今でもファンだけど)だった、フェリーニ、リドリー・スコット、スタンリー・キューブリック、デイヴィッド・クローネンバーグ、テリー・ギリアムといったオキニの映画監督たちは、その名前を出すたびに、「青いねぇ」などと嘲笑で迎えられた。銀座のシャンテシネ1で上映されていたフェリーニ『甘い生活』を見に行く、と言ったら、「そんなクズを見るヒマとカネがあったら、ルビッチの『街角』を見ろ!」とアドバイス*2されたり。そン時は憤然と拒否し、結局、『甘い生活』を見に行き、ド真ん前でのけぞってシネスコの画面に見入った。今でこそ、オレも『街角』のほうが好きな作品だけど、思い出の映画体験としてはフェリーニ作品のほうが圧倒的なんだよな。
……思い出話ばかりで、まるきり爺だな(苦笑)。それも当時からで、その日会ったばかりの大先輩に「キミはどうして過去の名画の話ばかりするんだ!」と叱責されたコトもあったな。その時は深く恥じ入りもしたのだが、今なら堂々と開き直れる。いいか悪いかは知らんがね。
*1:本来の意味はフツーに「映画狂」のハズだが、たいてい、ゴダールだのロメールだのハスミこと蓮實重彦(「彦」は正確には旧字なのでお間違いなく)一派が崇める映画作家とその「教義」に基づく映画しか賞賛せず、フィルメックスなど一部映画祭やフィルムセンターやアテネフランセで上映される映画を追いかけまくって悦に入るインテリ志向のおめでたい映画観客を愚弄する呼び名。最悪の具体例が梅○洋一。なお、「映○獣」と畏怖される一群の人々とは、リンクする部分がありつつも種族的に若干異なるので注意が必要。
*2:いちおう解説しとくとですな、フェリーニよりもルビッチのほうがずっと「映画的」である、なんて認識がハスミ教信者にはまかり通っているわけよ。その根拠はって? ハスミがフェリーニを基本的に高く評価してないから、ってだけ。後期のセット過剰主義等、マニエリスムの極致で映画それ自体で勝負しようとしてない、とか、そんな感じの論旨。なにしろ「宗教」なわけだからさ、教祖が認めない映画作家やその教義にあてはまらない作品は、「信者」は評価しねぇわけよ。アホくさ! オウムと変わらねぇでやんの、オェッ!<ヤスケン調