「傘はいらないの。傘はいらないわ!」

常磐貴子主演のドラマの番宣らしく、ラストエンペラーが再放映されたので久々に見直した。高2の時、三重県四日市市のベガ(だったかな? 駅前にまだあるハズ)に、坂本龍一ファンの友人ふたりと連れ立って見に行ったのを思い出す。劇場に入ると、ちょうど第二夫人が去っていくシーンで、坂本作曲の「レイン」が流れていた。高校時代に見た映画や音楽は、かなり細部まで思い出せたりするから不思議だ。
映画自体はベルナルド・ベルトルッチのなかではさして出来はよくない、というより、あるいは才能の枯渇が始まった転機になった作品かも、などと今でこそ思うが、それでもあのラストにはいまだにホロリとくる。当時、「コオロギが50年以上も生きているワケないだろ!」なんて難癖つけた大バカな級友がいたが、全く愚かしい。映画ならではの物語のオチのつけ方なんだっつーの! たしかにややベタな落とし方ではあるけど、正真正銘の皇帝が、変転の末、一市民となり、しかもあの文化大革命の渦中まで生きていた、というフィクションを超えた現実の奇怪さを思えば、アレくらいの創作なんざナンでもない、とも言えるわけで。 
さらに付け加えると、その後、『暗殺のオペラ』『暗殺の森』『1900年』といったベルトルッチの他作品を見て、あの終わり方こそ、まさしく「ベルトルッチ節」と呼ぶべきモノだとも思うようになった。結末で物語の出発点に「回帰」する、といった構造が多いんだよね。「胎内回帰」的と評されたりもしていたような。ありていに「堂々巡り」的、と言ってもいいかも。
ベルトルッチ自体は『リトル・ブッダ』で見放して以降、チェックする気が失せたんだけど、『暗殺の森』あたりは心底から映画史上に残る傑作だと思う。今からでもいいから、ジャック・ニコルソン主演で『血の収穫』の映画化に挑んで欲しかったりはするね。
それにしても坂本龍一の台詞はつくづくダメダメ。よせばいいのに、吹替も自分でやってしまってるからやんなっちゃう。よくよく見直すと、なんだか台詞自体も意味不明で、実はつながってないんじゃねぇか? とも思えるし。松橋登のジョン・ローン、佳那晃子のジョアン・チェンと他の吹替はどれもハマっているのに残念。