ビデオ撮りでは永遠に映画はわからない。

フジフィルムがシングル8の販売および現像を終了するらしい。学生時代、8ミリフィルムと少しでも触れ合えたのは、何事にも得難い体験だった。アレなくして映画の本質は体得し得ないのではないか、とまで断言したいほどだ。 
少なくとも、フィルムを一度も触ったコトもないような方に、フリッカー、あるいは映画の魔」に描かれた恐怖の実体は感知できないと思うのだが、極言だろうか? 
想像力だけではどうにも身に付かない種類のモノもある。映画とはフィルム、映し撮られしもの、コマの連鎖、フリッカーの産物...それらを「触知」してこそ。
しかし、今後は8ミリにすら触れられないとしたら、どうすればいいんだろう? 映画学校だのに入って、16ミリでの編集を体験できれば理想的なのかもだが、個人的にはそれよりも、まずはサイレント映画の上映会にでも通うほうが何事か得られるような気がしないでもない。
間違っても、いきなりAVIDなんぞで映画を学べるなんて安直に考えてほしくない。死ぬほどモニターとにらめっこするくらいなら手塚治虫のマンガでも読んでたほうがマシなのでは? 
大画面TVでDVD/BDを何千本を見ようが、せいぜい物語や演出のパターンが頭に入るだけ。コマのつなぎと画作りを本当に理解したいなら映画館に通うしかない。
かといって映画館やフィルムセンターに通って映画を何万本見ようが、それもまたダメなのだが。人としての社会性を失うだけになったりして。
「カツドウヤ」の「シャシン」はもはや絶滅した。くだくだ書いても嘆いても仕方ないのかもしれないが、かつて自分が愛好した「シャシン」には、いま身の回りからは失われた独特の時間の流れがあったように思う。
時代劇専門チャンネルで放映されてたりする往年の時代劇には、そんな古き良き時代の失われた時の刻みの息遣いが感じられる。自分のような時代遅れの野郎には、もはや新作映画は基本的に無用だ。余生は失われゆくモノ、何よりもそこに秘められた今では体感し得ない「時間感覚」をこそ追い求めて過ごしたい。

フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)

フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)

フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)

フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)