反芻して、体得せよ!

眠れないとオレなんざ、昔見た映画とか漫画とか小説の印象に残るワンシーンを脳裏に再現して、反芻しては楽しんでいるんだが、こういう楽しみ方を披露するたび、オレが大学のサークル入った頃なんざ、ナンだかダサい、ヲタだキショい、なんていじめられたりしたモンだ。オレはそれがむかついて、仲間が見ない映画をビデオでひとり借りまくったりして、仲間内とは一味違う次元で、自分の志向性を模索していった。
シークエンスを覚える、というのはかつての映画好きでは当たり前の楽しみだったように思う。現に、ウチのサークルの連中が気取り屋ぞろいだったかナンだかでヒネクレてただけで、年輩の映画ファンの方と話すと、好きな役者の声色真似てみせたりして座を盛り上げるというのはマニアの会話じゃごくフツーだった。
たとえばの話、小津安二郎が好きで笠智衆の真似したくならないってほうが不思議と思うンだよ。下手だろうが似てなかろうがンなコトはどーでもいいの。それをやってるヤツは自分なりにシーンを頭とカラダで再現しているワケで、こういうのをまさに「体得」すると呼んでやっていいんじゃないかと。
反芻の美学だが、オレが語りたいのは、反芻したモノをいかに自分のモノにしていくか、「体得」していくか、というコトについて。映画の創り手だけじゃなくて、鑑賞たる観客側はもっと自分が好きな映画1本1本に愛着をもって、それを自分なりに真似したり、頭で何度も再現するなりして、「反芻」することで徹底して味わうようにすれば、自分なりの見方なり見識などが自然と身につくようになるんじゃないかって。
ウチは新作レビューなんて滅多にやってないので新作映画の検索はあまりないんだけど、映画ってのはさ、ただ数を見まくる、単純に消費するみたいなやり方じゃなく、いかに自分なりに作品をきっちり味わって、「体得」できるかにかかってるんじゃないかと思うのね。
モノ自体を満足に味わってもないクセに、いきなり大上段に批評家ぶったり通ぶって話したがる手合いが多過ぎらァね。
ネオアカサブカルヲタクなんでもいいが、モノ語らせて面白く、真に拝聴に値する人物ってな、「反芻」の名手であり、「体得」の名手である、とオレは断言する。消化速度が速いだけのヤツなんてダメよ。器用ぶって数だの最新流行だけ追っかけてるなんてヤツぁしょせん流されているだけ、人間として底の浅さばかりが透けて見えらァ。
というわけで、諸兄、明日から名作のひとり再現劇とか、ひそやかながら楽しんでくれたまえ! 吹替洋画の面白さとか知って、広川太一郎の口真似したりするだけで全〜然世の中違って見えちゃったり、なんかしちゃったりするんだからぞなもしコノコノ〜チョンチョン!